- No.7005
- 料理・グルメ
尾の身の刺身 (和歌山県/太地町)
出典:農林水産省Webサイト(https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/onomino_sashimi_wakayama.html)
高緯度海域で餌を食べて太ったクジラは、夏が終わると繁殖活動に従事するために低緯度海域を目指し、真冬に熊野灘を通りかかる。それを狙うのが熊野の古式捕鯨であった。和田頼元は1606年に組織立った捕鯨を始めたことから捕鯨の祖と位置付けられている。
1675年に頼元の孫である頼治は網掛け突き取り法を考案し、死んでも浮いているセミクジラやマッコウクジラに加えて、死んだら沈んでしまうザトウクジラも捕れるようになった。この方法ではたくさんの勢子舟(せこぶね)や網舟(あみぶね)が出漁するため、300人を超える男たちが参加する大規模な漁に発展した。やがて網掛け突き取り法は土佐や九州にも伝えられ、領主たちも捕鯨を保護奨励したことにより、日本各地で捕鯨が行われた。
江戸時代が終わったことで社会に大きな変化が生じても太地では引き続き古式捕鯨が行われていた。しかし明治11年(1878)12月、太地鯨組は子持ちのセミクジラを追って沖合に流され、2日目の朝には捕獲に成功したものの帰還に時間を要し、午後になって天候が崩れたため船団は漂流し、100名以上が行方不明になった。後に「脊美流れ(せみながれ)」と呼ばれた遭難事故は太地の古式捕鯨に終止符を打ち、間もなくアメリカやノルウェーで発達した近代的な捕鯨方法が導入された。太地では形を変えながら捕鯨は現在も続けられている。
熊野の人々はクジラの肉や内臓はもちろん、骨や皮に至るまで、無駄なく消費してきた。最も高価なのが希少部位の「尾の身」で、霜降りの肉は柔らかく、甘みがある。
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2024/5/2 17:41:12 登録
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